北の桜守 映画感想



ネタバレです
映画を観る方は 読まないでください





















とても いい映画でした

2時間枠で描くには
時間も場所も
そのスケール感は
収まらないはずなのに
伝わってきました


この映画を支えているのは
女優・吉永小百合演じる
「てつ」が持ち続ける「情」です


それは
日本女性に備わっている
いい意味での
夫に従い
生涯 子どもを守る
姿です



物語は 進行しているのに
てつの行動を 理解するのに
その動機には 隙間があって
すんなり 理解できないまま・・・

劇中劇は
その隙間を 補完しているはずなのに
それでも 何か足りないまま
物語は 進行していきます

作品情報にある
「失われた記憶に向かって歩き出す」
ことで 少しづつ
その隙間を 埋めてきます


戦中戦後の 混乱は
屍から
財や食を 奪うことも 必要だったろうし
共に 貧困なのに
助け合う 温かさもある
そんな時代背景も 描かれています


夫の帰還を 待ち続ける
長い 永い 生活

息子(長男)を失ったこと

夫に 託されたはずなのに
守れなかった自分


それらは 膨大な時間が過ぎても
てつの罪悪感を 変えることはできない
そして 老いも訪れる


次男が てつを引き取る
きっかけになる 鏡との会話

鏡に映る 自分との対話は
てつを 支えていました

それは いろんな思い出を過ごした
自分自身との 会話だからだと思います


雪の中のバス停
鏡と会話して 消していく その姿は
印象的です

鏡(記憶)との 自然な会話感は
観る者に 安心を届けています

老いによる 記憶の混濁よりも
記憶の中で 過ごす幸福感を
優先しているように 感じます

このシーンを見て
鏡は てつの記憶を
映していると思いました



この映画は
南樺太での 種から育てた桜が
はじめて 花を咲かせるところから
始まります

家族との 集合写真
小さな桜が 満開になるその時
幸せな記憶です

そこから
近づいてくる 軍靴の音から
暗転します


てつの記憶が
掘り起こされていく過程で
ふたつの 大切な記憶が
登場します

おにぎり と さくら です


おにぎりは
てつの生活そのもの

家族との記憶です


付けで買う長ネギ
薪での炊飯

そんな
てつにとっての日常は
今では 成立しない

自分の記憶に
従順に 生活しているはずなのに



そして

桜  さくら

それは
てつにとって
もう ひとりの こどもです

守らなければいけない
かけがいのないもの

雪景色の中に
消えていった てつは
春の桜の中で
ようやく見つけます

ずっと 待っていた夫との再会
失っていなかった 長男

桜を守ること と 家族と共に過ごすこと
てつの すべてです

これらを
幸せな記憶とした 鏡の中ではなく
てつの 視界の中に 実現させること

監督さんの 描きたいことの通過点です
たとえ それが
観る者に「嘘」を
見せることだったとしても


この映画では
もっと 大きな幸せを描きます

家族で
誰も欠けることのない 家族皆で
迎える 満開の桜

満月の日に満開となる桜 と
家族 との戯れ
これは てつの夢そのもの

劇中劇で 描いたところに
監督さんの
伝えたい 悲哀と希望が
あるような 気がします

観る者に
釘を刺したかったのかもしれません

大団円で 終わるわけではなく
諸手を挙げて 幸せに着地するわけでもない

これからも 質実な生活は続いていくこと

てつが迎えた 今の幸せの先にも
もっと大きな 幸せがあることを
伝えたいとする意志です


映画が 切り取った
種から 育ったさくら から
満月の日の 満開の桜 まで

人にとって
膨大な時間でも
その先にも
幸せを叶える 時間(季節)があること

そんな風情を
届けているような 気がします






北の桜守オフィシャルサイト
http://www.kitanosakuramori.jp/index.html





映画『北の桜守』 桜守紹介映像










ここからは
映画の本意か どうか
まだ自信は ありません

ただ こう解釈した方が
辻褄が 合うような
気がしています



映画を 見終えたとき
てつは 本当に生きたまま
発見されたのか
確信は 持てませんでした

劇中劇に
何か意味(ヒント)が
あるような気がしています



劇中劇には 少なくとも
ふたつの役割が あると思います

辛辣な 戦争描写を 緩和する役割

スケールの大きな
舞台設定 や 時代設定を
簡潔に 説明する役割 です


そして
みっつ目の役割

てつが 存在する世界と
夢の世界との 端境(線引き)?


映画鑑賞後に
気になっている 劇中劇について
何か ヒントになるものが あるか
完成披露会見や 舞台挨拶の
youtube動画を 視聴しました


結果
劇中劇に 言及されるものは
見あたりませんでした が
やはり てつは 亡くなっていると
考えた方が この展開を
理解できるような
気がします


てつも 亡くなっているから
生還していない夫に 再会でき
海で失くしてしまった 長男にも
再会できたのではないか

夫と長男と再会できたのは
てつの亡くなった世界だったから・・・

劇中劇である必要は無くなります


満月の日に 満開となる桜 と
家族が 戯れるシーンは
亡くなった てつの夢の世界として
劇中劇に移行させて・・・


とても 繊細な演出だと思います

夫と長男とは
どうしても 再会させたかったから

満開の桜は
これから 訪れる希望として



最後に・・・

雪の中のバス停から
吹雪の中に 歩き出すシーン

鏡の中の 自分を
カメラで 撮影することで
お別れを しています

大切な 撮影したカメラを
バス停に 置き去りにしたまま・・・

このシーンで 既に
てつは 亡くなっていると
考えてみると
さらに違和感は なくなります


そして
江蓮の表札を 帰還した夫に手渡すこと

どうしても
てつの魂を鎮めてあげたいとする
監督さんの思いやりです


最後の最後まで
気持ちを 大切にする展開に
感心しないわけにはいきませんでした










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